8 月
04
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他者と私
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月に一度、社内で勉強会を行います。
勉強会とは、簡単に言うと誰かが議長となり、日ごろの研究の成果を発表する会です。テーマの選定は各人に任されていますが、基本的には仕事に関係することです。
今回のテーマは「ヒューマンエラー」でした。
内容は、簡単にいうと、人間はミスをする、誰でもミスをする、しかし、人間がミスをするとき、いつも同じような場面で、同じような理由で、同じようなミスをする、それを自覚的に認知せよと言うものです。
例えば議長が作成した資料には以下の言葉がありました。
「人は自らの経験や習慣に固執する傾向がある」
んんん…
と唸ってしまいました。とても笑えません。プログラマならば誰もが覚えのあることだと思います。その他、資料は耳に痛い言葉が溢れており、よく調べたものだと感心することしきりでした。
ただ、資料を読み進めていくうち、私はちょっと別の奇妙な疑問を抱いてしまい、そのことが頭を離れなくなりました。それはこういうものです。
私はこの資料を読んで、内容を理解したとします。そのとき、他の人が、私と全く同じように理解していると考えてよいものでしょうか。よくありません。何故なら、この資料自体の主旨が、人は同じ物を別様に解釈してしまうことの危険性を喚起しているからです。つまり、そういうことは起こりうるわけです。ではそういう齟齬が発生しないように、この資料の読み方が書かれた手引きを別に用意してみたらどうでしょう。例えば、ここの部分はこう解釈してしまいがちだが、このように解釈せよ、と言うようなことが書かれた手引きです。こうすると解釈の相違はなくなるでしょうか?
しかし、これでも解釈の相違は無くなりません。何故なら、その手引書も言葉で書かれている以上、読み手によっては別様に解釈される可能性があるからです。ならば、今度はその手引書の手引書を作ってみたらどうでしょう。しかしその手引書の手引書も、別様に解釈される可能性があります。何故なら、その手引書の手引書も言葉で書かれている以上、別様に…
お分かりだと思いますが、これには終わりがありません。
勉強会はその後、自分の伝えたいことが他人に確かに届いているのか確信がない(逆もまた然り)と言う話になりました。
こんな話があります。
人は新鮮なトマトを見ると、鮮烈な“赤さ”を感じます。私が言葉で表してみるなら、情熱的で燃えるように刺激的な感じです。ではこの“赤さ”を他人も同じように感じているのでしょうか。答えは、分かりません。何故なら、もしかしたら、私にとっての“赤さ”は、その他人にとっては“青さ”かもしれないからです。その感じを、その人は“赤い”と言っているのかもしれない。
私はどうしてもそのことを確認したくて、その人にこう尋ねたとします。
「あなたが感じる“赤さ”とは、情熱的で燃えるように刺激的な感じのことだよね」
しかしその人にとっては“青”さこそが情熱的で、燃えるように刺激的に感じるので、こう答えるでしょう。
「もちろん、情熱的で燃えるように刺激的な“赤”のことだよ」