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7 月 28

クオリア

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現代では、科学はこの世界の真実であると考えられています。
科学は宇宙全体を包み込み、あるいは物質の原子まで浸透し、遍く全てを解析解明して人間に無限の可能性をもたらすものであると信じられています。
つまり、世界=科学なわけです。

ただ、昔はそうではなかったらしい。つまり、この世界には神様のような絶対者がいて、全てはその絶対者が創造し、かつ創造し続けている。と信じられていたらしい。

生前、私のお婆ちゃんは仏壇の仏様に毎日花とお菓子をお供えしていました。私はその行為をかなり不思議に思いながら見ていたのですが、仏様のお菓子をくすねる事は一度もしませんでした。私は習慣として毎日仏前で手を合わせていましたが、神様とか仏様とかそういう存在を本気で信じたことは一度もありません。つまり無心論者なはずですが、お婆ちゃんの「ばちがあたる」という言葉が妙に心に引っかかり、時々湧き上がる出来心に身をまかすことが出来ませんでした。何故でしょう?

理由は“あの感じ”です。言葉に出来ないようなあの後ろめたさ。それが私の欲望を雁字搦めにして消滅させてしまいます。これぞ神の力でしょうか。しかし私はそうは思えず、こういう事象だって科学的に説明がつくことだと思い、色々な本を読んでみましたが、その中に意外なことが書いてありました。

それは、結局、科学は帰納法的検証によって定量化できることしか扱えず、本質的なことは解明できない、つまり科学は万能ではなく、世界=科学ではないというものです。

例えば、人間の手に火を近づけて、その時の脳内のニューロンの発火パターンを観測したとする。手に火を近づける度に同じパターンが得られたとしても(実際得られるわけですが)、それはあくまで電気信号のパターンに過ぎず(科学はここで“熱さ”が解明できたと宣言します) “熱い!”というあの感じではない。よって“あの感じ”を科学的に説明しようとしても出来ない。

幼い頃、私はお婆ちゃんのあの日々の行為を無意味なものであると感じていましたが、今は少しづつその考えが変わってきています。

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written by boss