8 月
20
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眼は決して視野の中には属さない
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前回、思うことと、思われたものの違いについてお話しました。絶対に疑えないこととして確保された“思うこと”。“思われたもの”は全て偽である可能性があるが、“思うこと”は偽ではありえない。とういのも真偽の概念も当の思われたものに他なりませんから、“思われたもの”の上位に位置する“思うこと”に、真偽の基準を当てはめることは出来ないのです。いわば“思うこと”は、この世界を当のこの世界として成り立たせている「地」であり、それゆえ“この世界のすべて”に“先立って”いる、のです。
ある哲学者は、上記の事態の例えとして「眼は決して視野の中には属さない」と言いました。
しかし、このことをよくよく煎じつめて考えると、ちょっと困った事態に陥ります。それは“この世界のすべて”の中には当然、当の私も含まれていますから、この私自身ですら、思われたものの一部にに過ぎないのではないか、という驚くべき疑惑に直面するからです。
私は私の体を認識できるし、私の精神も当然認識できています。でないと、私は私が誰なのか分かりません。私の固有名はdiceですが、私はdiceという名前だから私なのではありません。私は別にdiceでなくてもよいのです。mikeでもいいし、nikeでもいい。私を私たらしめているのは、名前ではなく、私の当の私自身に対する認識です。もう一度いいますが、これがないと、私は私が誰なのか分からなくなります。そう考えると、私自身も“思われたもの”の圏内に含まれていることになります。
デカルトは、それが既存の概念を超越する存在だと気がついてから、それを“思うこと”と何時までも呼び続けることは不適切であると判断したのだと思います。その何かをこう呼び変えました。
「決して想像力の下には入ってこない、何かしらある、私のそのそれ」
一見、完全に不可解な言葉ですが、要するに、それは決して想像(することが)できない、と言っているのだと思われます。そもそも何を想像して良いのか分かりません。しかし、想像すら不可能なものが何故“ある”と言い切れるのか?
いやいや、“在る”というのも一つの概念ですから、“思うこと”は“在る”も“無い”もないのです。