7 月
21
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kyoto
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連休に家族で京都に行ってきました。
京都は何度か訪れているお気に入りの街です。
京都の建物は古いものが多く、屋根が低くて、また道路は狭く入り組んでいて、そのいかにも下町っぽい風情が懐かしくとても心身をリラックスさせてくれます。何の抵抗もなく、すっとその街に溶け込める感じです。
そういった京都の町特有の雰囲気というのはとても独特でローカルなものです。同じ日本人である私でも方言や習慣などで戸惑うことがしばしばあります。一方、京都という街自体はご存知のように国宝級の神社仏閣多数あり、年間150万の外国人が訪れると言われるインターナショナルでグローバルな街でもあります。グローバリゼーションというのは、簡単に言えば、今使っている言語、生活様式、イデオロギーが他の別の場所に移っても(まずまず)そのまま通用することだと思います。これはとても便利なようですが、経済、情報、技術が一体化される代わり、文化的側面は綺麗に削ぎ落とされます。例えば箸はグローバルスタンダードになり得ないでしょう。これはスプーンやフォークが箸より優れていることを意味するものではないし、和食より洋食のほうが美味だからでもありません。一言で言えば日本の文化がローカルであるためです。
今回私が泊まった宿は、海外でもその名が知られた旅館だそうで、外国人も好んでこの宿を利用するそうすが、私が見たところ、外国人向けパンフレットなどはありませんでした。多分彼らは何か分からないことがあった場合、係りの人に聞くしかないのだと思いますが、係りの人はみんな素敵な京都弁で、外国語が喋れるようには見えません(私の主観)。そもそもその宿自体が、熱心に外国人を勧誘しているようには見えませんでした。
仮にこの宿がグローバリゼーションを進めたらどうなのか想像してみました。まず外国人に向けて外国語で書かれたパンフレットを置くでしょう。もっと進むと外国語の喋れる係りを置いたり、料理も和食か洋食か選べるようになるかもしれません。果ては彼らに合わせて洋式の部屋を用意したりとなると、これはグローバリゼーションそのものだと思いますが、彼らが「kyoto」に来る意味は無意味になります。
それにしても合理主義者の外国人が、何故わざわざ不便なところにやってきて不便なことをしたがるのかといつも思います。