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8 月 12

「我思う、故に我あり」と言ったのはかの哲学者デカルトですが、なぜ思うことが存在を証明することなのかとずっと不思議に思っていました。

デカルトは方法的懐疑と呼ばれる方法でもって、絶対に疑えないものを突き止めようとしたそうです。
方法的懐疑とは、疑うことが主目的ではなく、少しでも疑わしいものは絶対とは言えないとして「偽として斥ける」。この操作を繰り返すことにより、最後に疑えず残ったものだけが真実であるとする、その一連の思考的手続きのことです。

そして、この方法的懐疑の果てに残ったものが「思うこと」だったそうです。

「マトリックス」という映画をご存知でしょうか。当時一大ブームを巻き起こし、社会現象にまでになったのでたいていの人は知っていると思います。
その映画の主人公は「何かおかしい」とずっと懐疑していました。しかし、何がおかしいかは分からない。言いようのない違和感と苛立ちが彼を苛みます。やがて彼は、世界の真実を知る。結局、不幸にも彼の懐疑は当たっており、すべては機械が見せていた夢だった。ここがこの映画の最大のカタルシスです。そして、すべてが嘘だったその世界で、その主人公の懐疑だけが唯一の真実だったというのがこの映画の含意であったと私は思います。
つまり「何かおかしい」と思っていた自分だけは、夢から覚めても消えずに残っていた。

これはまさにデカルト言う「我思う、故に我あり」の具現です。

ただ、思うことは、本当にそれ以上疑えないものなのでしょうか。いえ、そもそも「思うこと」とは何でしょうか。例えば私が何かを考えて、それが頭で像を結んだ時、これはもう「思うこと」ではなく、「思ったもの」です。
仮に親切な誰かが「いや、俺はよくわかっている。説明してやる。『思うこと』とはこういうことだ!」と丁寧に説明してくれたとします。ただし、その「思うこと」は、彼が言葉に出した時点で(というより彼がそれを思った時点で)、既に「思ったもの」です。ということは、私がどんなに彼の言説を理解できて「なるほど」と思ったとしても、それは私が知りたかったことではないことになります。

私が知りたいのは、私の頭で具体的な像を結ぶ以前の「何か」なのです。それはもはや辛うじて「何か」としか言いえない「何か」です。それについて何か具体的な言明をした途端、それは「何か」ではなくなってしまう「何か」です。妙な言い方ですが「それ」は理解できてはいけないのです。それは捕まえることができてはいけない。捕まえた途端、それは私が捕まえたかったものではなくなるから。

そして最初の疑問に立ち戻ります。
「じゃあ『思うこと』って一体なに?」
以下、永遠にこのフェーズを繰り返します。
かくして私は、永遠に「思ったもの」の外に立つことが出来ません。
永遠に醒めない夢のように…

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